本当に語り合いたいこと
話せる人にまだ会ってない
本当に語り合いたいことは愛のことで、自分への慈しみ、人や自然やありとあらゆる地球に存在するものの愛の波動の話。
その対話は自分ともう一人の自分からや たくさんの自分や眠っている自分との対話から 始めればいいのだろう。
2025年は変換や変容や自分に戻る年だとも思っていて、そこから扉を開けて新しい変化の年の始まりだとも思っている。
それは静かな道を不快な置き去りにしているもの自分を感じ癒し、内側と外側、過去と未来、精神と現実が交差するターニングポイントで、ゆっくり確かに静かなるに内なる声を聞き、自分の根源的な声を聞き、これからの進む道の準備をします。
それは小さなことを日々の中で静かにゆっくり歩く事かもしれません。
私がなぜここにいるのか、この地球の変化の年に生きている意味がわかっているのかもしれません。
大きなことではなく、ほんの小さなことだと思います。
感情、感覚、感受性、希望、知識、経験、才能、意味ある偶然、数字、出会いが人との関わりによって、何かに小さな影響をもたらして、新しい流れや変化を遂げる。
それは巡り巡って自分を癒していく、地球に生きている、自分らしさ自分の世界を生きている。
この地球や宇宙に何をもたらされるのか、とても小さな力でも、波紋のように静かに波打っていく。
小さい時から本当に話したいこと知りたいことは まだ話せる人に出会ってない。そんな人が存在するのだろうかとも思う。
大体が恋愛とか人間関係や結婚や子供とか生活やお金とかスポーツとか仕事とか成功や将来とか表面的地位とか芸能人とか そういうようなことの日常的な損や得な話は軽く話せても、愛を深く話すこともなく、それは恥ずかしいことだったり、胡散臭いことだったり、もっと根源的だったり、湧いてくる物創りだったり、数字の妙だったり、意識や頭の中にある、今世では見たこともない景色だったり、個人的な精神風景や、感覚や思考、見えるものや聞こえることなどの、深い部分や、言葉の波動とかエネルギーとか。
自分が興味ある話は 人の日常生活に必要とされてないが私にとっては根源的でそれが日常にも関わっている。人はそこまで考えてもなくというか必要ともしていない、今必要としてるものが、お金だったり、外見的な価値や物質的な価値が主に関心事で、湧き上がるもの、それは歌うだったり踊るだったり、文章を書く、絵を描くなどの創作、話したとしてもわからないと切られる。人が意識したりするはことでもなく。
それでいて流行ってるとなれば長蛇の列で、芸術も飲食もファッションや音楽や人から与えられるものを有難がる。
もっと言うとその人の歴史や自分の歴史、感覚や奥深くの世界はそれぞれ興味はないことも多く、私は子どもの時から人の話を聞いている。
合わないと思われる人でもよく聞く、それがたとえ嘘であっても、虚栄だったとしても、それによって嘘を言うその奥を聞いている。
人は話の中に全てを正直に言うことはない、小さな嘘はその場の空気や、誰かに気を使ってとか、本人自体がわかってない気持ち感覚や、でも嘘を言う時の目は視線が遠くを見ているし、膜を貼っている。
時には目が瞳孔が広がって空虚なように穴に見えるだったり、動物の獲物を狙う目だったり、した言葉と目が違ったり。
嘘は悟られないように笑ってる人もいるが、目が嘘を付く時の目になっている。言葉が軽く口先で話すように、腹から言葉が出ていない。
嘘と言っても虚栄な為の嘘ではなく、自分に自信がないとか、そんな良いものを美しい物を隠す時もある。
そしていつも何処かに暴力があって、言葉の暴力とか肉体的暴力や精神的暴力で支配したり、奪い合ったり、本来助け合ったり慈しみ合ったりするはずの場面に、家族や恋人や仲間や友達や職場の人や近しい相手に、特に助け合うとか慈しむとか成長をし合うとかのことはなく、競争やイジメや上や下などの格差をつけるとか足を引っ張り合い、奪い合いで繋がっている関係で成り立たそうとしてる。
そんな中で湧き上がる軋轢は違うエネルギーや波動を生んでる。
勿論誰もが湧き上がるエネルギーの話題が出来るわけでもなく、言葉にできないからアートとして創り続ける、なんなら鼻歌だったり、ただ体を動かすだったり、匂いを嗅ぐとかでもあったり。
その元は傷ついたり喜んだりするエネルギーだったり、とてつもないものや魂から溢れるものだったり、そういう物を湧き上がる人も少ないのかもしれないし、違うことに慣れきって、自分自身の声が聞こえないのかもしれない。
本当に正直な湧き上がるエネルギーの話がまだまだ言葉にもできない、形にもできてない、まだまだ自分の中にたくさんあって、話せない。
そうこうしてるうちに、話すチャンスも失って、差し障りない話や、会う機会も失って大事なことを見せ合うこともせず、世俗的な世間的な日常を重視してしまっている。
実際話してしまえば、やはり何いってるのかわからないと言われるだけだったのかもしれないけど、そこまで近づいている関係になることも難しい。
話せないから絵を描くよ、話せないからオブジェを創るよ、話せないから歌を歌い、話せないから日常的な話に織り交ぜるし人の話も注意深く聞く。
だから人の作品に対しても凄く感情的になる、作品はわかるわからないじゃなく、どんな感情が生まれるかで会話する。
創った意図なんて作品でわかるわけでもないが、何を感じる感じない、腹が立ったとか涙が出てきたとか、ホンワカしたとか苦しく感じたとかエネルギーを感じるものだと思う。
全く意図しない感じ方でも全然いいし、それが作品での対話だとも思う。
商業と芸術は違って、商業はみんなの求めているものを売り、芸術は作者個人や団体の物を創りがわの勝手な世界観を打ち出す。
しかしその勝手な世界だからこそ、独特な常識とかありふれたものではないものがエネルギーとして現れる。
だからわからない世界観ではある、とても個人的で、その人の世界にがわからないままで素直に感じることから会話が始まる。
偽物のキャラを演じることなく仮面や武装をしないで、感性や生死を、愛を本当の自分に戻って、新しく生まれ変わる話を本当の自分を知ることで、どんどん自分の中にあるエネルギーや表面的な人の目でのジャッジを気にすることなく、自分の思考のジャッジもせず、直感に沿った物となって出来上がる。
いろんな人や物や自然や動物を大切にすることが愛ではないかと思ってる。
ただ創り出すものは、外気に触れたりしない自分の溢れ出る物を押さえずに自分の世界を表に出していく。
それが楽しくてワクワクする愛であるのが、それは計り知れない自然に湧き出るエネルギーでもある。
それは最も欲している自由である、自分が自分である自由がそこにある。
そして言葉にできない物を創り出し表に出していける。
いろんなとこに哲学や宗教やスピリチュアルとか、病院で病名を決めたり、知識のある苦労した成功者とか、そんな人や本や自己啓発などの一方的に読んだり、聞いたり、見たりと答えを聞くことに正解を求める。
が人はそれぞれ経験して手っ取り早く答えを出そうとする、便利な世の中でスピードが速くなっているから、でももしかしたら、本当は人に教えられたり、誰かのコピーすることが自分から遠ざけているのかもしれない。結論や答えより、経験することや探したり苦労したり迷ったりすることの過程が一番大事なのかもしれない。
だから人一人一人が独特の自分を表現したり会話することで、会うとか合わないとかより、一人一人を大切に寛容できるのかもしれない。
話すことで自分がぐちゃぐちゃだったとこが整理できるし、何より新しい風が感じられる。
表面的には分からないことだって、もしかしたら一歩近づけるかもしれない。
自分探しは自分に帰ることで、螺旋階段のようにグルグルと回っているだけのようで、上に上がったり下がったりしている。
そういう表面的なスピードに惑わせられないように、マイペースに進んだり下がったりして、自分を味わうことかもしれない。
だから修行僧のように生きていく生き方もあれば、苦も楽表裏一体何だから、楽しみながら自分が感じたりすることを否定も肯定もせずに、味わい、泣き笑い怒りを繰り返して楽しむことが大切なのかな。
だからもし話せなくても自分に正直に素直に何かを表現しても、気を使って言葉を選んだり、不快感を与えないように創作しても、一生懸命説明をしたり、誤解を受けたり、思考で作る不安のレンズで見る聞く人たちとは、会話は辞める。
自分に帰る、何か自分が疲れて体を壊す人との会話は辞める。
愛がない人とは会話をすることを関わることを辞める。
誰もが自分の幸せを手にして生きていけるそうなるように、生きていく。
関連情報
Sowelu.keiko.kadoto|アートに生き、着る。人生
Sowelu.keiko.kadotoで取り扱う唯一無二の洋服は、
デザイナー角戸圭子が1点1点パズルを組むように愛情を持って創っており、
その作品は前も後ろも右も左もなく全方向でアシメトリーであるため、
アートを着るように楽しい気持ちで、
世界でただ一人オンリーワンな自分を生活の中でも自覚する、
そんなお手伝いをしてくれます。
屋号 | Sowelu.keiko kadoto |
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