Sowelu.keiko.kadoto|アートに生き、着る。人生 Sowelu.keiko.kadotoで取り扱う唯一無二の洋服は、デザイナー角戸圭子が1点1点パズルを組むように愛情を持って創っており、その作品は前も後ろも右も左もなく全方向でアシメトリーであるため、アートを着るように楽しい気持ちで、世界でただ一人オンリーワンな自分を生活の中でも自覚する、そんなお手伝いをしてくれます。

投影という光と闇

  1.  

        ミラー現象で知る闇と光

 

見えるもの、見えないものが混在する中、外に見ていることが内のことで、内のことが外のことと、人と自分がごっちゃになりやすい。

好きと嫌い、ポジティブとネガティブが、光と闇が、誰の気持ち、誰の言葉、誰の態度と一見人に見えて、一見自分に思える。

ここで、プライドが高いのか低いのか、自己肯定観が高いのか低いのかでの、組み合わせで、だいぶ、実際と認識がズレていく。

弱さと強さも実は人に対してでもなく、自分に対してだという事実。

これを掘り下げるのはかなり苦痛で、でも、自分を知ることは、実は苦痛ではあっても、幸せや安心が手に入る。

誰かに依存して、自己肯定観やプライドや弱さを隠してて、ひとによって証明しなくてもよい、誰もが、強くて、弱いこと、それを違うもので補うことより、認めるて許す、ありのままの自分を認めることが、楽である。

自分に対しての理想、人に対しての理想、それは、生まれてからのちょっとした経験から崩れて守った暁なのかもしれない。

誰も、何かになろうとか人を変えようとかに躍起になるが、それは自分を変えたいがための、投影だ、自分を認めると、人にみえる投影が自分だとわかる、躍起になって誰かを変えなくても、その投影は自分を変えることで見えなくなる。

誰かが変わらなくても自分の投影を飲み込むことのほうが速い、今ある、出来事が悩みは案外、自分とは関係ないことで、自分にはどうにもならないことでもある。

人に対しての好きや嫌いや欲求やエゴは、実は自分の写してるだけで、逆に人からの攻撃や褒めは相手の問題でもあって、そこの整理は必要だ。

実際には、そこでうまく自分の投影やミラー現象に対処できないと、まったく逆な言動や行動をして、苦しみが始まる。

そう、見えてることや言われたりされたりすることが、相手自身の問題であることもある、自分が言う言葉や行動が自分のこと、自分の未解決の内情のことなのかもしれない。

根底にはだいたい自分の光や闇が、それぞれ影響してて、とっ散らかるのは、自分のことか、人のことか区別をつけてないから、おかしな、支配や服従といった、ずるい手で人と人が傷つけ合う。

私たちは生まれたときから、自分を知ることが成長というもので、まず、他者と自分の区別をつけ続けなければならない。

親指をしゃぶるが、それは庇護者か自分かそこから始まって、死ぬまで、その他者か自分かを測らなければならない。

そう、ごっちゃになりやすいのだ、その都合がよいだけの判断だと、自分は居なくなる。存在は自分で見つけるしかできない、正直に、良くも悪くも、光も闇も、ポジティブもネガティブも、そうすると、とてもクリアに自分も人も見えてくる。

もちろん、感覚や感情や思考だけではなく、身体の隅々から、自分にサインを送ってくる、誰かに存在を認めてもらうより、自分を自分で捜索するほうが、健全で、実は思うほどくるしみはない、悲しみもない、実は面白い。

だって、思いのほか強気だったり、恐ろしく弱虫だったり、えって思う小さなことが引っかかるなんて、いやいや自分ってどんな人ってくらい、思考で意識してる自分とは随分違う、もう、分析すると、これってどう解釈する、ことごとく自分を裏切り面白いくらい愛する自分が見えてくる。

自分で作ったキャラに合わせなくて、自由にいることは、健康で、老いがゆっくりで、体も心も軽い。

ただ、そこまでが、わからないから、理想とは違うから、苦痛に感じて、恐怖に思う。

そういうのも、最初は、演じる、仮面を被る、人をコントロールしているほうが楽に感じるが、いっそう自分が見えなくて、人も見えない、ただ殻に閉じこもって、演技や偽装を続けるしかなくなる。

それは弱さだけではなく、才能や強さもへし折ってしまい、光が影に負けてしまっている。

そうすると闇自分が支配されて、闇にしか見えない闇の住人になってしまい、自分の光が顔を出せなくなる。

何でも、人に飲み込まれて、人のせいにしたり、人に嫉妬や憧ればかりで、自分を見ないでいると、人を助けて、人に心を砕いてばかりいると、自分が空っぽになる。

自分の才能も、良さも歪められてしまう。人や自分がいつも正義でも悪者でも、強者でも敗者でもない、みんなが違うので、測れないってとこだ。そこに自分にとって偏ったものを、人に投影としてみると、全てがおかしい、全てが、楽園でもなければ、地獄でもない、クリアでニュートラルで見ると、もっと違うものが見えたり、聞こえたり、もっと深さを感じたり、広さも感じる。見えてるものが全く違うものも存在していて、たくさんの情景や現実が存在していることとなる。

投影やミラー現象は自分のフィルターで見えてるもので、解釈が違えば見当違いで、みんなが違うフィルターや当たり前のうえで、人をみているのは、自分を見ているだけだということを知り、自分を知ることから始めると、人との違いがある、どれも間違いではないけど、読み間違ったり、解釈が違うだけで、偏ってない真実にも気がつく。

良い悪いとか上か下かとか勝つ負けるとか、そんな判断ではなく、どういうことだってことのみや、人の数だけの現実が有るってことも見えてくる。

まずは、目の前に見えるものが、自分の親指か、庇護者の指かを見極めることが大切だ。

とはいえ、そういう自分を育てるのが、虚栄や仮面の人もいて、それが自分だと思っている、そういう人は投影を人のせいにして、人をコントロールして、自分を偽ってることが自分だと思ってる人もいる。

それは自分でも弱いとこはそう見ている、怒りや苦しみ悲しみをいくら人にぶつけても、やまびこは戻ってこない。

それはその人の成長を遅らせることを選んで自分を育ててると思っている、でも、偽装してるってことは知ってて、自分が仮面を被ってることも知っていて、それを選んでる、がいつか破綻はくる、その人の人生は生き方はそれでいいと思って、人に、自分の投影を人に責任をおわして、楽して、得してると思ってるけど、自分が自分を襲撃してくる日はくる、いい人やできる人を続けてたりしても、周りも少しずつ気づいてて、あえては言わない。

そこから、自分を知るとこに行くのかもしれない、その人が選んでる、私が選んでる。

人は、ミスがつきもので、ミスから、始まる。

そういうのは、自分で気づき自分で自分の傷ついたものの修正をするしかない、そう、人に責任転化して、自分を傷つけてる、自分を信じてない、自分の光や才能や良さを、誰かの何かになろうとしてる、それは、自分の光も何も闇に抑えてる。

それも、人は成長が始まるはその人のタイミングで、気づくのも知るのもその人のタイミングで、自分しか自分を見つけて育てることはできない。

愛もそうで、愛は自分で種から育てて、そこのあふれてから人と育てる、自身もそうで、自分が自分を信じなければ、誰も信じれない。

全てが自分を人に見ている、これが人を好きと嫌いと感じる心が、自分の扉を開けて、自分探しの旅に出る。

それが、家族だったり、夫婦だったり、友人だったり、職場の人だったり、愛が生まれそうな種があるとこで、憎しみが生まれそうなとこで、大きな投影を見つけてしまい、人間関係の難しさと感じている。

それは自分との出会いで、そこに人は介在しない、愛してる、好きだ嫌いだと思えば思うほど、自分の内を映し出す、楽しいはず、悲しいはず、怒ってる、苦しい、嬉しいが実は、自分の理想や嫉妬や自分の思いをその人たちに映してる。

傷つき、傷つけ、愛とか成功とか感動や嫉妬やそういうものが、全て、自分との出会い統合を終えず、愛を憎しみを人に見ている。

そう、それは自分を見つけ、自分を愛することをおざなりにしてる、誰かに認めてもらいたい、存在を輝く弱いそんな自分を見つけて欲しい、愛して欲しい、賞賛して欲しい、気がついて欲しい、それは、自分が自分に求めてるものを人に見てる。

赤ちゃんの時の親指、自分の親指を認識するための、自分を弱くて、強くて、優しくて、厳しくて、意地悪で、可愛くて、とっても輝いて、闇が深い自分を見つけて欲しい。

エゴも感覚も善人で悪人な自分を、信じる自信を取り戻すために、影や闇があるから、深い立体な自分が見つかる。

光り輝くには、影や闇があるから輝く。

誰かに会ったとき、好きになったり、嫌いになったり、なぜかわからない衝動は、エネルギーや情熱は、抑え善人で何事もないように見せて、内が嵐のときに、一番もう自分を見つける旅の入り口にいる、相手や場所や情景で、それに執着してしまうけど、うまくもいかず、苦しみが始まるのは、まずは自分を見つけて愛することの旅に行くための、時期が来た。

そこから、愛することや、憎しむことを、自分が感じてるのは自分にだと、そこを知ることから始まる。

でも一番大事なことは、自分が腑に落ちるかってことで、思考で考えるんじゃなく、自分が奥で腑に落ちたことで、一つ一つ自分が気がつくことが、誰かに言われたり、誰かの思考や常識じゃなく、ストーンと入るときが、自分を見つけ始めたってことで、そういう時期が来るのも、来ないのも、その人の人生の歩みで、正しいとか、常識とか文化とか宗教でも何でもなく、でも、いつかは自分と向き合うときは、遅かれ早かれくることはあって、人は孤独が必要で、外の世界に目を向けすぎて、自分をみないでいると、一番大事にしないといけない、愛する自分を、自己中心的な自分の見方ではなく、本質を、あるようでない自分の存在を認めていくことで、しっかり愛を育てることが、人との愛や幸せは、自分との愛や幸せの次のステップなので、自分を削って、傷つけて、誰かを大切にしても、愛していても、それは自分を愛したい投影でしかなく、人に愛や幸せを求めても、無理難題で、人は変わらないけど、まずは人との関わりで、何かが起きたのは、お互いが自分を見つける成長のスイッチを押し合った大切な人ではある。

誰もが、そのスイッチからどうするかは、その人それぞれの、歩む道を歩いていく。

それが闇でも光でも、経験するためのスイッチが、投影である。

だから、愛に、幸せに一歩近付いたということです。

そこで、このスイッチを押し合った人、お互いが自分を見つけ、愛せるようになると、また出会いがあって、同じ周波数やエネルギーの中で出会うと、人との愛を育てることができると思うんです。

もちろん、成長しながら、愛を育てる人もいる、それはその人たちが影響を与えながら、成長する、自分を見つける、これができるのはかなり難しい、が、人との関係で、自分がどうか、依存関係で、執着し合って、また、自分へ一歩近付いたかもしれない。

それは、いろんな経験で、光も闇も育んでいく。それはそれぞれが選んで、進む道を選んだえるだけで、どういう道を歩くかは、その人が同じ場所の生息なら、一緒になにかを学んでいくので、どれが正しく、間違いでもない。

光より、闇を経験することで、光を知る。自分の思考では誰もが、光の中にいると思いたいから、でも、光も闇も一緒にある、だから、表面的な光を選び、闇を経験する。闇はエゴには好都合で、特に、これは人に投影をして、怒り狂い、悲しみ、要求ばかり人に押し付ける。

人にぶつけても、自分の中のことは何も解決しない、が、永遠と、人にぶつけて解消しようとする、そこで格好の餌食に、優しく従う、依存関係の誰かを傷つける。でもそれは、相手も傷つけてるが自分も傷つけて、カルマを膨らましていく。

こうして、表面的に仲良く、投影したものをそれぞれ相手にぶつけ、支配と服従の形で、永遠と愛いいれない、関係を続ける。

これも、服従側の限界で終わるか、いくら痛めつけても、解消できない支配側が気がつくか、そうして、お互いの闇を育てるのだ。

多分、誰も本当の現実や真実はみてない、都合のいい投影で、自分に納得させている。

冷静に見えない、近すぎるように見えて遠い関係。

これを経験して、闇に気づくこともある、そこから、自分の内面をみる人もいる、投影はあくまでも投影、いくら屈服させても、屈服しても何も変わらない、闇が深まるだけで、そしてやっと自分の足で立ち上がろうと決心するのである。

人をコントロールする人、される人は、自分がコントロールできないから、人にぶつけたり、受けたりしてるだけだ。

そういう人たちは自分を知らない人、見つけようとしない人、それを愛だと思ってる人は、愛を知らない人。

だから、そういう投影のスイッチを押し合う関係は、最も大切な、愛や幸せの種を植えている。

だから、大事な人なのだ、それは親や兄弟、姉妹、親戚かもしれない、友達や恋人、夫や妻や子供かもしれない、仕事場で出会う人や、通りすがりの人かもしれない。

人は一人では生きていけないというのは、その投影する人が必要だからだ。

客観的に自分を見ることができる、それが、親や子供や兄弟、姉妹、親戚、夫や妻や友達や職場の人や通りすがりの人というわけだ。

人は孤独は必要だ、人間関係のわちゃわちゃは、目を外に向けて、他人事になる。

せっかくの投影が、見過ごされて、人を愛したり、憎んだり、悲しんだり、怒ったりと、勘違いするからだ。

もちろん、その感情が偽りではなくて、向けてる方向が違ったりする。

そして、闇が深まったとしても、憎しみ合ったとしても、自分を知り、見つけて愛せたなら、その人とはじめて、愛を育てる道が見つかる。

そこまでは、とても大変な道のりかもしれない。が、投影を認識することで、本当に穏やかで、豊かな愛が育てられる道につながっている。

頭で、思考で納得しても、心の奥の芯にこないのは、ワクワクしたり、じんわり笑みがでる喜びがわかないのは、なにかの思考に縛られて、無理やり、納得しょうと思っている、いい人にならなくても、善良にならなくても、悪者にならなくても、自分の軸とつながったら、もう、闇があって当たり前での、エゴや光も何でも、自分を受け入れる。

もう、優しい人でも、善良でもない、自分自身でいい、そのまま正直な気持ち、かっこ悪くても、人とは違っても、嫌なやつでも、自分は許し、自分を卑屈に謙虚なふりせず、そのままの感覚や感情を受け入れる。

そのうえで、人にそれをぶつけることもなく、卑屈な態度にもならず、意味なく自分の自尊心を下げなくても、高くていい、威張らないでいい、人に賛同を受けなくても、共鳴されなくても、ありのまま、自分を裏切らないように、そうすると人を裏切ることもない。

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アートを着るように楽しい気持ちで、
世界でただ一人オンリーワンな自分を生活の中でも自覚する、
そんなお手伝いをしてくれます。

屋号 Sowelu.keiko kadoto
住所 〒551-0021
大阪府大阪市大正区南恩加島6-16-21
電話番号 090-5063-3092
営業時間 10:00~18:00
定休日:火・日
代表者名 角戸 圭子 (カドト ケイコ)
E-mail info@kadotokeiko.com

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