老いる
どの道を通るか どう生きるか
人が老いていくのにどういう路を辿るのか、父はもう亡くなってだいぶ月日は流れた、顔も強面で性格も頑固で全く人の言葉を聞くこともなく、ただ神戸出身なので阪神タイガースが好きで広島県の片田舎に住んでいるにもかかわらず、関西人気質のまま面白いことが好きでひたすらカープファンの中で阪神ファンを貫き、たこ焼きやお好み焼きを作って食べて吉本新喜劇をみる、子供みたいに自分のしたいように生きてきた怖いお爺さんだったが、癌になって驚くほど可愛らしいお爺さんになっていった。
入院していても若い看護師さんに冗談と言って笑わかして、暇なので洗濯したり野球中継をみたりしていつもニコニコしていた。多分かなり治療とかもしんどいだろうにニコニコしていて、注射の下手な看護師さんだけには怒っていたが、怖い頑固じじいが可愛いおじいちゃんになっていた。
年を重ねる事でとても素直で怒らないおじいちゃんになっていった。不思議だとても自己チューだったので年をとるとワガママになると思っていたが穏やかな、看護師さんに好かれたい一心のおじいちゃんになるとは看護師さんにモテたいとは、可愛い限りだ。そしてお母さんにもとても優しく、惚気まで言っているのだ。
お母さんはお父さんの年を越えてまだ長生きしているが、あんなにいい人だったお母さんは文句や悪口ばかり言うおばあちゃんになってきた、これは認知症の症状でもあるが、お父さんは元々外面が悪く敵が多かった、たくさんのトラブルも腕力やずる賢く正直に生きていた、お母さんは外面はよくなるべく穏便に生きていくタイプで今のように、敵意むき出しでいるタイプではなくどんどん目の離せない人になってしまった。かなり私も嫌われつつあり、いつも暴言を吐いている。
お母さんは色んな敵から自分を守っているようなのだが、それが過剰反応しているようで私などにも、行動の制限をするのでにらめつけてくる状態もある。助けてやっているのに邪魔をするやつという扱いだ。犬や猫、鳩や雀などの動物をかわいがるのだが、飼い主さんには悪口を言うのだ。私はボケるというのは悪いことに気づかなくなり、穏やかになっていくものと思っていたが、その人の脳縮小や潜在的なものが混ざり合ってその人のその後を作るのだ。
確かに田舎にいたとき周りの老人はどんどん同じ怖い顔になった表情のない鬼のような顔の人が多かった。逆に穏やかな和やか人もほんの少しいたが、誰もが怒鳴ったり脅したりしてくる人がばかりではないがそんな人が多くなっていった。
やたらと遊んでる子供の声に怒鳴ったり苦情を入れるお爺ちゃんやお婆ちゃん、老いるとは見えない敵と闘わなくてはならなくなる人も多いのだと。肉体からの感情は性格も何も変わってしまうことなんだということを
お父さんはお肉が好きだったお母さんはお肉が嫌いで野菜ばかり食べていた、食べるものでも将来の老いた自分が変わっていくということもあるのだ。お母さんはとても人に優しかった、お父さんはとても自分勝手だった。こんなにも老いて変わっていくなんてどんな道のりでもそれが人の生きていく道だ。
お母さんの見えている世界は私が見えている世界とは違っているのだ。孤独という意味では一緒なのだが生きているのも闘っているのも同じだが、戦っている相手が違うのだ。私は自分と闘っている、生きるとは闘いだと思っている。しかしお母さんが戦っているのは自分の中の他人、私は自分の中の自分。ただお母さんの見えない人他人は敵と味方もいるので厄介なのだが、味方の人と楽しく話したり味方の人を心配して突飛に見える行動したり、勿論全てがその世界だけではない、周りの優しさを嗅ぎつける、認知症とはまだまだ分からない物だ。が老いとはそう言う第二段階の生きている世界なのかもしれない。脳がかけるというのは見えない敵や不安や恐怖との闘いだ、終わりはない苦しい闘いだ。
私は自分との闘いは終わりはないが敵ではない、仲間との闘いだ。苦しさとは違う友好的な闘いなのだ。これは私が考える認知症との見解だが、人によってでかた違っている、老いとは楽になっていくものと思っていたが人によって歩む道は違うというわけだ。
しかしお母さんは、一生懸命生きている、好きな散歩をしてお絵描きをして、できる限り整理整頓している。ただ上手く分けられないので私が止めているのだが、テーブルをずーっと拭いて玄関を掃除して、枯れ葉を摘んで自分のできる限りのことを一生懸命やっている。ホントは従来の優しいところで見えない人を助ける行動もとっている。しかし私は振り回されるので怒ってしまうが気になる事を優先していると、現実世界は見えてないので見えない世界で動物や人のために尽くしているのだ。
しかし現実世界は違っているので現実世界に生きてる私には苦痛や哀しさを感じてしまうし、面倒くささや腹立たしさも感じるのだ。老いるとはどういうことなのだろうか、お母さんの場合は不安と恐怖から闘って想い道理にならなければ敵に見なされる、敵ばかりの世界だ。機能の低下がどういう方向か生きているということは死が訪れるまでの闘いなのだろうが、穏やかな事が好きなお母さんが穏やかでいられない。
ある意味お父さんは正直に生きた、人によく見せずにそのままで付き合える友だちを作った、変こな爺さんばかりと仲良くしてた。年下の友達も変こな人だったのだろう、お母さんは人との付き合いで全てを我慢していい人でいた、たくさん知り合いはいたがいい人につけいる人も多かった。両者とも最後にはたったひとりの友達。
お母さんは人にも自分にも嘘をついていい人に徹した。だから今でもいろんな嘘をつく。自分がいい人であるために、しかし認知症の時は子供のような意味のない嘘をつく。自分の気持ちはもう分からないしいい人と思い込んでいる、間違いを指摘すると怒り出す。これはすり替えという症状らしい、あくまでも失敗や悪いことは誰かがやったことにするのだそうだ。あくまでも理想の自分で生きていくのだ。そして邪魔するやつはみんな敵だ。頭の中の出来事なのでどうにも出来ない、2人しかいないので私がいつも悪いやつという認識だ。
もしかしたらどういう風に生きても、全ての事柄に出くわすように出来ているのではないだろうか、誰もがそれぞれの環境や想いで選んでいる。例え困難から逃げたとしても大きな壁となって立ちはだかる、それならどこかの誰かにならなくても自分の気持ちや自然の感覚で良いところも悪いところも経験して正直に歩むほかないのだ。少しでも歩むと気づいたら乗り越えてる諦めずに生きることが大事なのだ、たまには怠けたり、突っ走ったり経験をして生きていくようになっているのだ。
老いるとは色んな生き方の集大成で残りの道のりは、歩んできた結果でもありどういう風に生きていくかも本人次第なのだ。悪も正義も正しさも間違いも色んな経験を積んで人生を進めていくのが老いていくのだ。終焉に向けて歩むのだ。
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