Sowelu.keiko.kadoto|アートに生き、着る。人生 Sowelu.keiko.kadotoで取り扱う唯一無二の洋服は、デザイナー角戸圭子が1点1点パズルを組むように愛情を持って創っており、その作品は前も後ろも右も左もなく全方向でアシメトリーであるため、アートを着るように楽しい気持ちで、世界でただ一人オンリーワンな自分を生活の中でも自覚する、そんなお手伝いをしてくれます。

言葉や行動が鋭い刃物のように突き刺す

 

      言葉の使い方で心はえぐられる

 

人の基本がそれぞれ全く違う、だから発する言葉や行動も実は自分を物語っている。人にしたことや発した言葉は  自分がより自分であるためのものである。

誰かが助けてくれたとき自然にありがとう、助かりましたって言葉が出るが、人によっては当たり前と思っていて感謝の心が湧き上がらない。しかしそんな人に限って人を利用する、ありがとうとか  感謝してますとか  ごめんなさいとか  そんな言葉をつけている割には吐き出す言葉の内容は批判だったり、貶してたり、必ず否定しかしない人と話すのがしんどい。勿論完璧な事はないけれど、何か感じる心が違う、優しい人は好きでやってると思っていたり、寧ろ迷惑とも思っている。どちらも過剰だとあまり良くなく依存の関係になるけど、それでも親切や優しさは基準があって、意地悪や性格の悪さも基準がある。そして生きてる間に気がついて自分を大切にすることが、自己中心的であってはならないということを知る事が、自分にも優しい事にもなる。必ず言葉や行動は誰かが見ていなくても、自分や子供や孫にかえってくる。優しさも行き過ぎれば、過保護になるし、意地悪だと子供たちも優しくはならないし、思いやりも持たない。

もし意地悪に抗議をすると、そんな意味じゃないとか  悪く取りすぎとか  言い間違いとか  言葉足らずとか  謝ってるんだから許してとか、 昔のことを掘り返すなとか、 同じことばかり言うなどか、全く謝ってもいないし、誠意もないのに  許してくれないひどい扱いだと被害者ぶる。それは人から出てきた言葉であっても、どこか自分にも大なり小なり思っているかもしれないから、心にネガティブに刺さる。言ってる事は行動にうつすことも大事だし、表面的に見せることばかりを考えて行動すると、言葉が張りぼてであることも明白で、自分が自分に自信がない表れだともとれる。誰かに認めてもらうより、自分が冷静に見て認められるようになる事が大事だ。自分は自分の全てを知っている、自分の中にあるもう一人の自分は誤魔化せない、寧ろ自分を誤魔化すことが一番やってはいけない生き方だ。もし戦うとしたら外ではなく内で戦う、勝ち負けが好きなら自分との競争をする事が大事だ。

人間の根本は生まれた時にはもっていて、どんな家に生まれるかや  どんな選択をするのかで  もう自分がどういう試練や経験で  自分成長させるか甘やかすかの自分の人生を作り出す。それはそれぞれが自分を俯瞰して見れるまではなるかどうかも分からない。それは冷静に自分や人を見て成長の糧に出来るか、曇った目で見る限り誤魔化したり、逃げたりして自分の成長を妨げる選択をしたり、ただ自分に厳しく生きることは遊びがなくなる時があり、ネガティブに感じすぎることにもなる。でも本当は自由でそのままの自分でいる、仮面を被ったり、よく見せるみたいなことではなく、自分を卑下したり、謙虚という言葉で自分を傷つけることなく、成長をしている自分を大切にするあくまでも、自分の魂が求めている、外側の見せかけの常識や見せかけの成長に左右されず、心のままに生きていくことでの選択や自由を守ることが大切だと思う。

私が人に感謝してありがとうございますと  頭をペコペコ下げてるのが気持ち悪いとか  困っている人を私なりに助けていたら、そんなのその人は望んでいないとか  その人に成り代わって言ってきたり、ことごとく批判したり、否定したりしてるのに自分が被害者のように振る舞う人たちを  真面目に関わっていたことで得たこともある。

自分の見える範囲でしか見えてないから、例えば助けるとかお節介はただの奢りで、広く大きな魂というもので見たとき、今生きることで何を学ぶか何を知るか何を得るか何を無くすかは、それぞれの今世の課題でもあり選ぶ権利も本人にある。

だから善意と悪意ってそんなに人によって違うのか、ってくらい違い、それが現実人に見えていることだけが全てだと思っていたるふしもある。私にはただのひねくれ者にしか思えず、そして人が困っていても気づかないのに、気づいて行動した私を批判する。いや困っていても助けようという心が湧いてこない。というか勝つ負けるだけで生きていれば、自分の都合のいいようにしか取れず、人と助け合うという心は欠落していて、それが過剰な優しさだとかで、非難してくる。

そして人にする行動を競争してくる、私はこれだけやったと自慢する、私には全てのことが勝ち負けでしかないようにしか見えない。

関われば関わるほど毒のように、身体を蝕まれ体調を崩す。考えるだけでも、気分も悪くネガティブな気分になる。

何を言うにしてもその人の温かさや優しさは、言葉や声として紡ぎ出す。だからちょっとした言葉でも温かい心は言葉や行動一つで、感じ取れる。

ほんわかした温かいエネルギーが私は包まれる。

冷たい人がいくら感謝とか良い言葉を使おうとしても、否定的な批判的なエネルギーが出ていて、言葉も行動もナイフのように突き刺していく。

そんな冷たい空気の中でいると、本当に疲弊して哀しい苦しい寒い、身体や心が崩れていく。

知らず知らずのうちに我慢だけを覚えて、人を疑う猜疑心が膨らんでしまっている。

疑い深いと言うより、何か引っかかりを覚えて、曖昧にしながら警戒していく人間関係に疲れている。

気軽に疑問を言ったとしても、言い負かそうという意図が見えて、我慢を強いられる人間関係から脱出したい。もう何年もこうしてエネルギーややる気が削がれている。これも何か教えてくれていると思い、自分を奮起するがもう立ち上がる気力も失われている。それなのにもっと将来を考えたらとか人の人生をジャッジしてくる。

思いやりとか優しさとかを踏みにじられて、鋭い言葉で励ましだとぶっ刺してくる。私がただバランスを保ちながら自己中心的にならないように、自分だけが正しいとは思わないように、自分のエゴも観察しつつ、物事の本質は何かバランスを崩して俯瞰することができなくなってないかと、気をつけつつ、自分がこのことによってどんな成長するための事柄なのか、冷静に見る。そしてたまに疲れ切ったら、自分を褒める休める、大自然のエネルギーを感じに行く。

人に今までが思いやりや優しさは利用されていたのだと理解する、これは被害妄想か。

思えばそういう人たちばかりが周りにいるのに気がついて、少しずつ少しずつ離れていくようにしているが、そんなこといったい何十年も続けて、本当に小さな喜びや小さな幸せが宝石のように感じる。ずーっとそれを原動力にしていたが、エネルギー搾取のほうが多すぎて、もう立ち上がれない程になっている。

たぶんそこでたくさんの学びがあったから、悔しさや哀しさの負のエネルギーをも使い、物創りに励むが、小さな喜び小さな楽しみに癒されるだけでは、流石に疲れが限界に、それで休憩していても、やはり嫌な言葉や態度は人は辞めてくれない、鋭い刃物で思いやりや感謝だと言って切りつけてくる。自分で出来ることは自分を成長や後退させることしか出来ない、それは当たり前だ。人のことばに揺らいでいるのであれば私の成長は足りない。そして思わぬところで恨まれていたりするという、基準が違えば優しさとか言われていることも、ただの邪魔でしかない。優しいすぎると言われていたけど、わたしは優しくしようという意図もないが、これは愛ではないかと思っている。勿論愛とはネガティブにもポジティブにも  取りようによっては変化する。

早く次のステージの扉をくぐりたいのだが、どうしたらいいのか、目の前に見えてるのに進めない、扉は開いてるのに、いく道が曇って見えない。どの道を選ぶかと言うより道はどこだ?道がなくても歩ける場所はどこだって、全く見えない。これはまだ私の直感やひらめきが表れてないのである。

言葉は人を生かすし殺す、周りの人の影響を受けて良くなることもあれば、悪くなることもある。表面的にはキラキラして美しく見えてても、ただの張りぼてで、殺伐とした場所が多い。

それはちょっとした行き違いから始まるかもしれないが、そうなると何を言っても行動しても信用はなくなり、別の環境に移るしかない。これを何回も何回も繰り返すループ。完ぺきにカルマのループに入って出れない。

それでも気を取り直しして心を毒されないように、生きていたらとうとう身体も心もボロボロで自分だけを守るり愛することを始めた、今まで溜めた負のエネルギーを放出して、塞いでいた一部の心も解き放って、するとたくさん矢が飛んできてるので、本当に鎧も何もつけていないから、鋭い刃物が例え小さくても、切れ味悪くても、突き刺さる。一生懸命再生しようと浄化していても、不意に刺さる。これが刺さらなくなれば、もう一つ先に進んだことになるのだろうが、まだまだ矢は振りさかる場所にいるから休めない。

たぶん人のことばを聞きすぎた、共感せずともそう言う考え方かと聞きすぎて、私は嫌なものを聞きすぎた、嫌な人の言葉はやはり嫌な悪口ばかり、もうお腹いっぱいなのに聞きたくないのに、日常会話の中で悪口しか言わない人に、頼んでもやめようとしない。違うこと言ってと言っても考えた末に私の悪口を言い出した、思いやりの言葉として。

もう世界が違う人とはやめてと言っても馬の耳に念仏で、因果応報を話してもそんなの知ってるという、過去の事をしつこく言って、根に持ちすぎとか、今ってどれくらいの間を指してるのか、過去って問題は放置されてるのに、全くかみ合わない。最後に良い言葉と悪い言葉が私たちは違うとまで言われ、善意や悪意も全く逆らしい。と言ってもさっき言った事と今言ってることが違うので、多分その場で言い負かすことや言い包めることにやっきなのだろう。

本当に関わること自体をやめたほうがいい人だ。

ただただ疲れるだけだった。

人の考えや行動を変えてやろうと思っているわけではないが、モラハラやパワハラやモンスターペアレントをして、実害がでているだけに、私を含め被害が出てる以上関わらざるおえないとこもある。放置して実際尻ぬぐいをする羽目になるから、その縁が切れるのにはそお遠くないから、最小限の関わりにとどめている。

一番はその人とは違う世界だということで、重い感情や悪い波動やオーラや負を取り込まない、同情や共感は波動を下げる。エンパスの性質でも、嫌なエネルギーは取り込まないように共感しないように、軽くいられるように、そういう考えがあるということにおいて、私は卵の薄皮のようなバリアをはるイメージをして自分に必要のないものは感じても取り入れない、事にした。

だから最小限に今は関わり、全ての関わりを辞める縁を切ることにしている、そう思っているだけで、必要以上に責任感を持たなくていい。人はそれぞれ自分の人生を自分で選択してあるいてる。外部に放つ負のエネルギーは必ず自分に増幅して返ってくるものだ、だから自分自身を自分の愛で満たすことが、一番やりやすく自分の都合の防御にもなる、知らぬとこから放たれる矢も私には届かない。

関連情報

Sowelu.keiko.kadoto|アートに生き、着る。人生

Sowelu.keiko.kadoto|アートに生き、着る。人生

Sowelu.keiko.kadotoで取り扱う唯一無二の洋服は、
デザイナー角戸圭子が1点1点パズルを組むように愛情を持って創っており、
その作品は前も後ろも右も左もなく全方向でアシメトリーであるため、
アートを着るように楽しい気持ちで、
世界でただ一人オンリーワンな自分を生活の中でも自覚する、
そんなお手伝いをしてくれます。

屋号 Sowelu.keiko kadoto
住所 〒551-0021
大阪府大阪市大正区南恩加島6-16-21
電話番号 090-5063-3092
営業時間 10:00~18:00
定休日:火・日
代表者名 角戸 圭子 (カドト ケイコ)
E-mail info@kadotokeiko.com

コメントは受け付けていません。

特集